2005/04/26

息子との「神経衰弱」で大敗

数ヶ月前からトランプ遊びをしていたが、今夜初めて3人(息子、妻、私)で「神経衰弱」をした。

  • 息子(3歳3ヶ月):12組
  • 妻:10組
  • 私:5組

という、とんでもない結果がでた。

結構まじめにやったのに、息子の記憶力は凄かった。

2005/04/19

子供の自転車選び

息子はもうすぐ3歳3ヶ月になる。

三輪車はもっていて家の中で乗り回しているが、自転車はまだ持っていなかった。去年の秋くらいからそろそろ自転車をと思ってはいたが、寒くなる季節だったので春になったら考えようと保留していた。そして、3月になった。

自宅そばの公園で息子と遊んでいたら、息子の保育園の友達が自転車に乗ってそのお父さんに押されてやってきた。きかんしゃトーマスである。息子はさっと駆け寄り興味津々である。そのとき春になったら自転車を買おうと思っていたことを思い出した。

近場のホームセンターに行ってみた。しかし、(私にとって)これは!というものがない。そしてキャラクターものが多い。息子は先の友達と同じ型のものをみつけて興味を示している。が、深みにはまらない(息子がその自転車に心を決めてしまわない)うちに撤収することにする。別の店に行ってもおなじような状況。

ネットで調査、私にとってぐっとくるもの発見。補助輪なしで乗るトレーニングのために、ドライブユニット(ペダルとチェーン部)がごっそりはずせるという機能もあるらしい。しかし写真を見る限り補助輪がない。 あるネットショップに問い合わせるがレスポンスが悪い。2度目の問い合わせでやっと回答メールをもらったが、質問に十分答えていない。いまひとつ信頼できないので、別のネットショップに問い合わせる。こちらもレスポンスが悪く、2度の問い合わせにも音沙汰なしだった。そのくせ一度問い合わせメールを送ったら、ショップのメールマガジンは送ってよこす(自動配信だからだろうが)。非常に気分がわるい。

そうこうしているうちに3週間ほど経ってしまった。

妻に早く決めろと言い渡され、しぶしぶ行ける範囲の自転車屋に行く。選ぼうとしたが、息子自身がこれでいいと言わない。 そのことを妻に報告したら、子供の意見は不確定だから振り回されるなと。
じゃー俺が買いたいの買うよ、と、独り決めをする。

といういことで、ネットでぐっときた自転車を最初に問い合わせを送ったショップで注文する。注文時に補助輪をつけてくれと頼んだが、補助輪は構造上つけられないと回答された。が、1)補助輪は後輪の軸につけるだけだから、著しくその軸が短くなければつくだろう、という推測と、2)それでもつかなかったら、金属加工でもなんでもしてつけよう、などと考える。さらに、金属加工をプロに頼むというのもありだろう、ネットでそういうサービスやってるところないかしら、と、調べてみたら、部品一点からでもつくってくれるというところがある。自転車のパーツなど・・・なんて書いてあって、期待通り、値段は張るだろうが・・・

補助輪だけホームセンターで買っておいて、自転車の到着を待つ。さて、ご本人は気に入ってくれるか・・・

来た! 息子も興奮の様子。補助輪は難なくつく。そして走りに行った!

はじめ、ペダルを逆こぎにすると後輪に制動がかかる「コースターブレーキ」にとまどっていたものの、三輪車でペダルというものに慣れていたせいか、あっという間に乗り回すようになった。もう、こっちは全速力で走らないと追いつけない。下りでも面白がって奇声を上げながらがんがん漕いで行ってしまう。

これからは、私の運動不足もちょっとは解消するかもしれない。


これが買った自転車、LOUIS GARNAEU RENNRAD


ドライブユニットをはずした状態

2005/04/14

丁寧にまじめに考えることの大切さ

めんどくさくなると勝手な断定や推測を事実のように語ってしまう。
そこを丁寧にまじめに扱うことが事を進め信頼を得るために大切なことだと思う。

領土問題には常にこのようなことが付きまとう。
乱暴な歴史認識は、それぞれの民族の勝手な断定や推測を事実のように語った結果創造されるものである(と私は最近考えている)ので、どちらか一方が乱暴であってはことは前にすすまない。

丁寧にまじめに扱うと、その途中段階では非常に無意味に感じられる議論が生まれることもあろうが、
その無意味そうに見える議論の積み重ねの先に、意味のある結論が現れてくる。
そうやって導き出した結論が自身の直感的結論と相違する場合は、
結論に至る論理に矛盾があるのか、論理は正しくても入力したパラメータが間違っているのか、あるいはその者がはじめて経験する課題であるため直感が妥当に機能しなかったか(他にもケースがあるかもしれないが)のいずれかであろう。

丁寧にまじめに扱い考えて論理的に組み立てるという態度は、ひとつの信仰のようなものであって、(たぶん)この信仰を「科学」と呼ぶのではないかと私は考えている。
これは人間が意識決定するための規範のすべてではない。「科学」以外の代表的な信仰に「宗教」があると思う。

乱暴な歴史認識でよしとするのは「宗教」の態度であるように思う。しかし、この態度は乱暴であるからよくないと言っているのではない。長い歴史のなかで、明らかに考える必要がない、あるいは直感的に即座に判定を下すほうが効果的である、というような事項(おそらくこれらの事項の数量は一人が人生で経験することがらのオーダーより大きいのではないか?)に関して、先人が子孫に対して残してくれた遺産だと思う。しかし、その遺産が有効な(民族)範囲をはるかに飛び越えて、人間は交流できるようになっていたり、その遺産とは別の遺産(近代ヨーロッパから導入された世界中交流することが利益になるというもの)が流入したり、さらに先人が「考える必要がない」「効果的である」とした考え方と現在とは状況が異なるため遺産をそのまま適用するのは実は無理があるなどのため、いわゆる民族問題が起こっているのではないかと私は想像している。なお、この部分に関しては、ケン・ウィルバーに宗教と科学をテーマにした内容の著作があった気がするので、これにひとつの解を求めることもできるかもしれない。

以上、後日しっかり考えようと思って、ドラフトのつもりで書き始めたが、それなりに形になったので公開してしまおう。

読書キューの中身

現在、購入済みで読み進めている本群は以下、

  • 山本七平の日本の歴史(上・下)
  • 日本人と中国人(山本七平)
  • 日本人と「日本病」について(岸田秀・山本七平)
  • 進化の構造1(ケン・ウィルバー)

マイブーム(古い)の山本七平氏は、依然継続中である。

2005/04/12

愛称について

子供のころは「○○ちゃん」と呼ばれる人が多い。そして○○には、その人の名前がそのまま入らずに短縮されることも多いと思う。私は「よしひろ」という名前だが、子供のころから「よっちゃん」と呼ばれていた。

中学生のころ、友達がその母親に「○○ちゃん」と呼ばれているのを聞いて、「こりゃいかん(子供っぽく聞こえる)」と感じて、自分の両親に「よしひろ」と呼ぶようにと指示した。 その指示は直ちに実行にうつされ、指示の効果および両親の対応性には満足であった。が、私の両親は「し」と「ひ」の発音の「言分け具合」がいまいち(父:群馬県北部山沿い出身、母:八戸生まれ夕張育ち)なので「よししろ」という発音になり、呼びかけるときにはさらになまって「よしろー」のようになってしまった。私自身は「し」と「ひ」の言分けのあいまいな地域に生まれ育っていたのでその部分に関して無頓着であったが、私の妻がはじめて私の実家に行った時には、自分の息子を変な風に呼ぶ家だなと思ったそうだ。

子供が生まれると、最初の難問が名付けである。

上のような経験、および妻の意向もあって、「○○ちゃん」とは呼ばない・呼ばれない、名前そのもので呼んでもらえるような名付けがしたいと考えていた。また普段の呼び方も名前そのもので呼ぶようにしていた。長男のケースではほぼ100%それが実現されている。実現のために、長男の祖父母(私と妻の両親)や叔父叔母(私と妻の弟・妹)に対して、お七夜(命名日)のお祝いの席で、『「○○(短縮名)ちゃん」形式愛称禁止令』も発した。(しかし、保育園などでは「○○(短縮名)ちゃん」と呼ばれたりしているが。)

最近、長女が生まれた。名前そのものでストレートに呼ぶ形式は、まだ定着していない。女の子だからだろうか? 「○○(短縮名)ちゃん」形式を使ってしまうことが多いように思う。

※これは、mixiのコミュニティ「よしひろ」への投稿記事を改変したものである。

2005/04/08

児童手当のその後

昨日、児童手当の認定通知書が役所から来た。4月分から毎月1万円(子供二人分)給付される。

いままで「児童手当」と書いてきたが、厳密に言うと私が給付を受けるものは「特例給付」という。国民年金加入者あるいは厚生年金加入者であり、ある所得制限の範囲(A)内の者には「児童手当」、厚生年金加入者でAとは別の所得制限の範囲(B)内の者には「特例給付」という名前になっている、ということだ。所得限度額の表を見比べるとA<Bであり、差は150万ほどある。つまり、厚生年金加入者は国民年金加入者よりも所得があっても「特例」として給付する、という考え方のようである。給付額はどちらでも同じである。

さて、しつこく「年金」の名前を頻出させた。先に書いた認定通知書にも念を押すように、年金加入者ではなくなったら(一時的でも)受給資格を失う、と書いてある。『児童手当制度のご案内』と題されたリーフレット(by川崎市)に書かれた資格要件には、年金に加入していること、とはかかれていない。しかし、所得限度額表は国民年金加入者用と厚生年金加入者用の2種類があり、また上述のように認定通知書にも念押し記述があった。

つまり、この制度を利用するためには、年金加入が暗黙の前提ということであろう。年金加入率がこれほど低下しているということを考慮しないで作られたリーフレットであると、考えることもできるかもしれないが、それよりも、年金加入者=前世代支援者の子供を支援することは行政として積極的でありたいという意思のように感じたし、それは正しいようにも思えた。逆に言うと、年金非加入者=前世代非支援者の育てる子供を支援するということは非支援者的意識の醸成を支援することになり行政として選択したくない施策であると考えられるのでは、と思えた。

考えすぎの晩である。