2005/04/14

丁寧にまじめに考えることの大切さ

めんどくさくなると勝手な断定や推測を事実のように語ってしまう。
そこを丁寧にまじめに扱うことが事を進め信頼を得るために大切なことだと思う。

領土問題には常にこのようなことが付きまとう。
乱暴な歴史認識は、それぞれの民族の勝手な断定や推測を事実のように語った結果創造されるものである(と私は最近考えている)ので、どちらか一方が乱暴であってはことは前にすすまない。

丁寧にまじめに扱うと、その途中段階では非常に無意味に感じられる議論が生まれることもあろうが、
その無意味そうに見える議論の積み重ねの先に、意味のある結論が現れてくる。
そうやって導き出した結論が自身の直感的結論と相違する場合は、
結論に至る論理に矛盾があるのか、論理は正しくても入力したパラメータが間違っているのか、あるいはその者がはじめて経験する課題であるため直感が妥当に機能しなかったか(他にもケースがあるかもしれないが)のいずれかであろう。

丁寧にまじめに扱い考えて論理的に組み立てるという態度は、ひとつの信仰のようなものであって、(たぶん)この信仰を「科学」と呼ぶのではないかと私は考えている。
これは人間が意識決定するための規範のすべてではない。「科学」以外の代表的な信仰に「宗教」があると思う。

乱暴な歴史認識でよしとするのは「宗教」の態度であるように思う。しかし、この態度は乱暴であるからよくないと言っているのではない。長い歴史のなかで、明らかに考える必要がない、あるいは直感的に即座に判定を下すほうが効果的である、というような事項(おそらくこれらの事項の数量は一人が人生で経験することがらのオーダーより大きいのではないか?)に関して、先人が子孫に対して残してくれた遺産だと思う。しかし、その遺産が有効な(民族)範囲をはるかに飛び越えて、人間は交流できるようになっていたり、その遺産とは別の遺産(近代ヨーロッパから導入された世界中交流することが利益になるというもの)が流入したり、さらに先人が「考える必要がない」「効果的である」とした考え方と現在とは状況が異なるため遺産をそのまま適用するのは実は無理があるなどのため、いわゆる民族問題が起こっているのではないかと私は想像している。なお、この部分に関しては、ケン・ウィルバーに宗教と科学をテーマにした内容の著作があった気がするので、これにひとつの解を求めることもできるかもしれない。

以上、後日しっかり考えようと思って、ドラフトのつもりで書き始めたが、それなりに形になったので公開してしまおう。